ビジョン心理学ナイトライト・ニュースレター2025年6月号
6月は可能性の月です。そして、多くの可能性を秘めたこの月に、私たちはその可能性を最大限に生かし、その可能性を実現するべく、基本に立ち返るよう求められているのです。私たちは恐れから、自分の人生において自分を癒し、前進させるものに関して、例外を作ってしまうところがあります。癒し、変容、進歩のために何が有効かを知っているにもかかわらず、そうしてしまうのです。
私たちの人生に死んだような感じが生じれば生じるほど、それは私たちが内に致命的な葛藤を抱えていることを示しています。死んだような感じは、それを隠すための防御にすぎないのです。その葛藤とは、人生や人間関係、自分自身への失望から、苦しみを終わらせるために死んでしまいたいという願望です。
葛藤に拍車をかけるもう一つの側面は、生への恐れです。死への恐怖は、死への魅力、生への恐怖、そして目的を果たせないことへの恐怖に対するかすかな防御です。人生に挫折感を持てば持つほど、自分を攻撃したり人生から逃げたりすることで、その苦痛から逃れたいと思うようになるのです。
誰かを、何かを許さないことが私たちの足かせになることを知っているにもかかわらず、私たちには許していない人々がいます。いまだに恨みを抱き、否定的な感情を抱いている相手がいるのです。すべての問題の核心に恨みがあることに気づけば、自分の恨みが他者に対するのと同じように自分に対しても負の影響を与えていることがわかります。
あなたは誰を赦していないのですか?この人は、あなたが裁くためではなく、救うために来た人です。私たちは平和の基本原則を忘れてしまっているのです。それは、誰かがあなたに対して愛に基づいて行動していないとき、その人は助けを求めているのだということです。もし起こったことが、あなたの人生において大きな痛みを伴う出来事だったとしても、それはあなたが学ぶためにやってきた魂のレッスンだったのです。痛みの程度は、まだ学んでいない程度です。恩寵は、私たちが解放されるように、それを学ぶのを助けてくれるでしょう。あなたは、聖なる家族の絆を含む天国の道に戻してもらうことができます。
ブッダが言ったように、この世で起きていることは夢です。ブッダはまた、この世の夢を作ったのは私たちの心であるとも述べています。私たちは、人生というセミナーの中で、この世界でレッスンを学ぶことが必要なのです。ワンネスへの道のりにおいて、それぞれの人生で意識を高めていくために。 しかし、それもまた夢なのです。いつでも、私たちは完全であることを選択し、夢から目覚めることができます。早く前進する方法として、常に分かち合い、広げ、愛の呼びかけに答える生き方を選ぶことができるのです。
愛の法則に例外はありません。つまり、私たちは、今自分が信じていることと正反対の人々を愛するよう求められているのです。私たちを攻撃したり、私たちの利益に反して行動しているように見える人たちでさえ、愛することが必要とされているのです。彼らは、私たちが以前信じていたこと、どのように行動していたかを示すことで、私たちに奉仕してくれているからです。私たち自身の罪悪感の投影である、批判、非難、恨みつらみがなかったら、私たちは助けを求める声を聞き、思いやりを持つべき理由しか見ることができないでしょう。他人が私たちに愛をあらわしていないときは、私たちが彼らに愛を見せていないのです。そして、彼らが私たちにその行動を示さなければ、私たちは、罪悪感や、私たちを束縛する罪悪感という自己攻撃を含む、私たちの中に隠された場所や影の姿を見つけることができなかったでしょう。
世界は私たちの鏡です。私たちは自分の嫌なところをすべて他人に投影しているのです。奇跡のコースが述べているように、私たちは世界を許すために生まれてきました。これは私たちの隠れた自己を癒します。世界は私たちの批判と、私たちのバラバラに砕けた心の投影を示しています。私たちが赦し、抱きとめるほどに、私たちは赦され、受け入れられるのです。
すべての人が勝利するためには、私たちは自分のやり方を手放さなければなりません。そして、天の道を選択するために、抵抗をあきらめ、他の人の道と戦うことをやめるよう求められています。それが、両者が成功する唯一の道です。それは、相手の立場を統合することが私たちの完全性のために必要であるという理解を伴った、平和のための唯一の道なのです。もしあなたの人生が困難で恐怖に満ちているとしたら、それはあなたがすべてを自分でやろうとしていることを示しています。あなたは天とその恩寵を忘れ、天を自分のエゴに置き換えようとしているのです。
世界が夢であり、あなたの鏡であるならば、そこには誰もいません。誰もが自分と自分の心を映しているだけであり、だからこそすべての赦しは本当のところ自己に対する赦しなのです。魂や無意識のレベルでは、私たちはただ自分自身と関わっているだけであり、私たちが完全に許し、全体性と平和に統合していない自分自身と関わっているにすぎないのです。私たちが交流しているすべての人は、私たちが平和にいるか、自分自身と葛藤しているかを示しています。私たちの外側の葛藤は、内側の葛藤を示しているのです。
魂のさらに深いレベルでは、すべての人が神との関係を表しています。誰かが私たちにしてくれた、あるいはしてくれなかったと思っていることについて、私たちは密かに神がしてくれた、あるいはしてくれなかったと思っているのです。しかし、神はご自分にあらがうことはできないので、私たちに責められるようなことをなさるはずがありません。神は私たちに完全な自由を与えるとともに、すべての人にすべてを与えてくださっています。これが神の一体性と寛大な愛の本質なのです。ですから、神が私たちの責めに値するようなことをしていなかったとしたら、それをすることができたのは私たちだけで、私たちが神を非難していたことは、私たちがずっと神や他の人たちにしていたことのようです。たとえば、神が私たちを見捨てたり拒絶したりすることはありえません。神は愛であり、ワンネスなのですから。これは潜在意識の原理なのですが、私たちは、他の人が私たちにしたと非難していることを、自分が他の人にしているのです。
私たちの感情は私たち自身から生まれます。私たちの感情は私たちの中にあるのだから、誰も私たちに何かを感じさせたりはできません。自分以外の誰も、私たちに罪悪感や傷や恐れを感じさせたりはしません。私たちの感情は、たとえ瞬間的なものであっても、私たちが起こっていることに対してどのように対応するかを、あるいは自動的に反応してしまうかを選択するものだからです。感情の痛みは、私たちの解釈、あるいはむしろ出来事に対する誤った解釈から生じます。私たちが反応してしまうとしたら、それはすでに自分の中にある古い感情や信念からであり、私たちは何かの見返りを得るために、今これらの感情や誤った解釈を使っているのです。これらの感情のエンパワーメントと成熟の原則を学ぶことで、私たちの人生、そして私たちの周りの人々の人生はずっと楽になります。それを学ばないと、未熟で、かんしゃくを起こし、自分の思い通りにするために状況を利用するようになるのです。
成熟と寛大さは、他者との間にどのような問題があろうとも、愛を与えることを選択し続けた結果です。寛大さは、愛をもって奉仕し、応え続ける祈りの水車です。したがって、もしある領域で欠乏があるとすれば、それは私たちの側がケチであることを示しています。それは、私たちが他者にその人が持っていないものを与えることを期待しているところなのです。欠乏は決して天の意志ではないので、私たちは一旦与えれば誰もが自由になるという贈り物を与えられたのです。期待や特権意識を捨てれば、他者に求めている贈り物が自分の中にあることを認識できるでしょう。
また、潜在意識レベルのより深い原理もあり、それは人生で何が起こったとしても、自分の計画だったのだと認識することです。ハイアーマインドにおいては、それはレッスンを学び、意識を高めるためでした。エゴにおいては、幸福と真実を犠牲にして痛みを増幅させ、エゴ自身を築くためだったのです。
私たちの人生で起きたことは、私たちがエゴの見返りを得るために書いた脚本であり、たいていは自分の目的から逃げ、自分のやり方で物事を進める口実を得るために書いたものです。私たちがしたこと、しなかったこと、人生で起こったこと、私たちにされたこと、そのすべてが私たちの責任であり、魂のレッスンなのです。私たちは、他者や出来事を、自分自身を攻撃し、学び前進することを止める口実にしました。私たちはそれを、自分の目的を拒む言い訳に使ったのです。今、これらの否定的な出来事の一つひとつが、私たちに他人を責めたり、不満を抱いたりすることから目を覚ます機会を与えてくれています。なぜなら、批判する時と同じように、私たちは自分自身の内なる罪悪感を隠すために、非難や不満を利用していただけだからです。これらは学ぶべき大きなレッスンであり、特に人生を恐れ、前に進めない言い訳を持ちたがっている場合はなおさらです。覚えておいてほしいのは、成功するために人生で事件を起こす必要はないということです。自分の心をクリアにし、癒し、ベストを尽くせばいいのです。邪魔をせず、恨みを手放し、平和でいることで、休息し準備の態勢をとることができます。
天にはそれがわかっています。自分を駆り立てるのはやめなさい。心配したり、川を押そうとしたりするのはやめましょう。すべてのことをパートナーシップによって、特に天とのパートナーシップによって行いなさい。天が力仕事をすべてやってくれ、恵みに満ちた学びの扉を開いてくれるでしょう。
すべてはカルマなのだから、もしあなたが幸せな学び手であれば、さらに意欲的な学び手であれば、あなたの人生はスムーズで喜びに満ちたものになるでしょう。感謝の人生を送れば、常に流れに身を任せることができます。起こることはすべて、タオが最善のために働いているのだと認識すれば、今がこのレッスンを癒し、学ぶ最善の時だということもわかります。その結果、あなたの抵抗はなくなり、あなたに苦痛や困難を引き起こしているのはあなたの抵抗なのです。あなたが癒されるにつれ、起こっていることや目の前で繰り広げられていることが気に入らないとしても、それを受け入れるなら、あなたは前に進みます。そうすれば、起こっていることは、平和をもたらす理解の中にどんどん入っていくでしょう。
あなたは純粋無垢な存在です。あなたはそのように創造されたのです。誰も、そして何ものも、神の意志を変えることはできません。無垢は豊穣をもたらします。それ以外は、エゴが自分自身を構築するために使う幻想です。エゴは痛み、罪悪感、感情を通して私たちを自分自身から引き離し、私たちを他者から引き離します。私たちが癒されるにつれて、内と外の両方により多くの一体感が生まれます。これらの変容の原則を思い出せば、自分が作った牢獄から自分を解き放し、可能性を現実の成果と変える助けとなるでしょう。
6月は成長と繁栄の月となるべき月です。生命や果実が成熟するのにあなたがすることは何もありません。6月は可能性に満ちており、それは私たちがどれだけ愛を広げ、どれだけ贈り物を分かち合うかによって実現します。これは、実現をもたらすというより、可能性でしかなかったことが実際に起きたとわかることを助け、それが喜びと豊かさをもたらします。何事においてもいい加減にやることは中途半端であり、それは複雑な結果をもたらします。
今月は愛で輝く月です。それは再生と喜びをもたらす愛です。愛が平和をもたらし、私たちを天に向かって上昇させるのです。犠牲を癒すのは、心を尽くして与えることです。というのも、引きこもっていると、犠牲という自ら作り出した牢獄に閉じ込められてしまうからです。
本当に人を助けたいのなら、神の愛と光を自分の中に招き入れ続けることです。 そうすることで、内なる闇が一掃され、平安と理解が深まります。この光の中で、あなたはますます純粋になり、受け取るものをより多く受け取り、楽しむことができるようになるのです。 この暗闇と大きなチャンスの時代に、あなたは灯台になることができます。あなたの光と平和が周囲の人々と共鳴し、彼らの光を燃やし、平和をもたらすことで、あなたは自由への道を示すことができるのです。一輪の花から庭が育ちます。
6月は可能性の月です。神の計画には苦しみはなく、ただ創造と結実があるだけだからです。エゴとその攻撃の代わりに、光を受け入れましょう。神はその愛と、神の道の一部である奇跡を広げています。 あなた自身もその一部となるのですから、喜んで、幸せになりましょう。
ナイトライト ニュースレター
2025年6月
オアフ島タートルベイ
翻訳 栗原弘美